友だちってなんだ

だいぶ久しぶりにラインで連絡をとった先輩がいる。海外旅行をしていた時に観光地でたまたま意気投合した人で、宿も近かったので毎日のようにバーホッピングをして、ウイスキーの飲み方はその人から教わった。

自営業の人だったがコロナ渦で商売がうまくいっていないところがあるらしく、ちょっとしたメッセージのすれ違いで気分を害してしまったようなんだが、そのフォローをラインでするのが面倒になってしまってラインのやりとりが止まったままになってしまっている。

酒を飲める量も同じくらいだったので一緒にバーやレストランを飲み歩いた日はとても楽しくて、日本に帰国後も時折一緒に飲んでいたのだが、こういう時、そういえば気分屋なところあったなぁと改めて思い出す。 強気で媚びないところが魅力的な人でもあったのだけど、育ちが良すぎたのだろうか、普通の人は当然譲るようなというところで譲れないところというか。

ホテルのバーで遅くまで飲んでて、もう時間的に帰らなきゃいけないというところで店員さんの好意に甘えて飲み続けたりとか。付き合わせていた店員さんも事情で早く帰った方がよさそうだったのに、他の客からもお前たちがいたら店員さん帰れないだろとたしなめられたりしつつも真顔で飲み続けるとか超絶自己中だったなとか(もちろん自分は帰ろうと言っていた)。

金も持ってるしビジネス上の利害関係ある人とかは付き合いも上手そうだけど、全部裸になったとき、信頼できる人はあの人の周りにどれくらい残るんだろう、とかふと思ったり。ぽかぽか暖かい季節になると、水辺の穴場のレストラン、貸し切り状態の中冷えたワインボトルを一緒にあけた日が懐かしくなる。

 

この先輩が自分のスケープゴートになってくれるかというと正直疑問だが笑、海外という非日常の中で一緒に密な時間を過ごせて、気分屋で自己中でたまに扱いめんどくさかったけどどこか筋が通っていて信を置ける人だったから付き合いが続いている。またふらりと飲みに行く日は、もしかしたら数年後かもしれないが、たぶんあると思う(フォローはめんどくさいのでしないが)。

一方で、もう何年も付き合いがあり友人の中でも一番頻繁に会っていたような人でも、向けていた信頼の気持ちが揺らいでしまうことが一度でもあると関係も揺らぐことがある。どういうことがあるとそうなるかというのは説明が非常に難しいのだけど、そのときその都度はあまり気にならなくても追ってみると積み重ねで気になる小さな不信だったり、仲よくてこんなに長く付き合ってるのにこの人そういえばあまり本音わからないなとふとしたときに思ったり、うまく理由つけたつもりなんだろうけど面倒なことを結果的に押し付けられていて(ビジネスだったらロジックや根回し含めきれいな仕事でむしろ感心してしまうけど、それを自分との関係でやるということは友達として自分と同じ見方はしてくれていなかったんだなというのがわかるお願いをされて)いることがわかったりしたとき、もうそれ以後同じようにはいかないと思う。

 

真摯な友人が一人でもいたら、多分それはかなり恵まれた人生です|松井博|note

友人の定義は人によってそれぞれだと思うが、こういう方向性での考え方が好きだ。Noteの記事の中にも例示されているけど、仲がいいと思っていた同期数人に引っ越しの手伝いをお願いしたら断られたことがあって、あの時は若かったので少なからずショックだった。でもたぶんあの時の経験は自分の友人の定義設定に少なからず影響を及ぼしていて、その意味でとてもいい経験だったと思っている。

ちなみに映画監督の押井守氏は著書の中で、友達の基準をこう表現している。「イラクで失踪したときに、後先考えず、すぐに飛行機に飛び乗って現地に来てくれる人」と。

すかさず色んな方向からツッコミが来そうな極端な例えだが、だからこそ著書のタイトルは「友だちはいらない。」だ。家族や仕事仲間、師匠、あるいは小さきもの(ペットとか)などの必要性と比較しながら友人を定義する持論は、表現を生業としている人らしい周りに流されない突き抜けた考え方で、思想を完全に真似はできないが1つの考え方としてとても尊敬する。

 

自分で言うのもなんだが私は人のお世話をするのが好きで、いわゆる困っている人は放っておけなくて、例えば昔は初対面の人であっても知人友人の紹介を通して就活の支援をしたりとかなんだりを見返りなしで好んでよくしていた(今も稀にだけど機会があればやる)。そういう積み重ねが例えばSNS上の繋がりには数値として可視化されている部分もあるし、目には見えないし自分では認識できていないけど周りが自分を評価する上でプラスに働いていることもわずかながらあるとは思う。

今まで知り合った人の中で一番お金持ちだったいわゆる世界レベルでの成功者は、とにかく人に恩を受けたら必ず返すのを徹底していた。人の好き嫌いも激しくて傲慢なところもあったが自分の成功は自分の力だけじゃなくて他人の存在があるからこその成功であることを肌感覚で理解していて、染み付いた習慣でそれを実践していて、これはとても勉強になった。

 

たぶん自分が引っ越しの手伝いを頼まれたら、よほど嫌いとか苦手な人でなければ基本、引き受けてしまうと思う。一方で、それがたぶん普通の価値観でないことも理解していて、今でも自分の引っ越しの手伝いを人にお願いするのは自分にとって踏み絵をやらせるようなもので、過去の経験以降、同じ1人の友人にしか頼めない。幸い断られていないし、その友人は、意思を尊重しつつときに厳しいことも言ってくれるから、たぶん自分は恵まれた人生なんだろう。

よかれと思ってアマチュアで友人が出ている舞台をチケットを買って観に行ったり、演奏会を聴きに行ったり。何か見返りを求めてもちろん行ったわけではないけど、その中で今に至るまでずっと関係が続いた人はいない。予約したはずの演奏会(大学のサークル演奏会)にわざわざ高校の時の自分の友人まで連れて行ったら受付で自分の名前がリストになくて、それに対してほとんど謝罪もなかったなんてありえないこともあったなぁと。万人に向ける親切や信頼や信用は失望や裏切りなどのリスクを伴っていて、全て人生の糧にはなるんだけど、自分はやはり聖人にはなれないなぁと。

 

 


ハリウッド版「攻殻機動隊」!『GHOST IN THE SHELL ゴースト・イン・ザ・シェル』予告編

 

スカーレット・ヨハンソンと日本で連想するのは、自分の中ではロストイントランスレーションが1番。


Lost In Translation trailer

人のタイプ別攻略法

年齢を重ねて、色々な人と話したり、友達になったり、一緒に働いたりという経験を積み重ねていくと、新しく会う人を無意識にでもどこか類型化してしまうことはないだろうか。私はわりとよくあって、顔のタイプでの類型化もするが、人となりを見てグループ化することが多い。これがうまくできると、過去の経験からその人の性格上の特徴を踏まえた上で人づきあいができることになって(この人は何をしたら喜ぶ、何をやったら怒るとか)処世術のスキルがアップする(気がする)。

 

最近類型化に成功したのが亭主関白タイプである。昔の同僚を見ていて類型化に成功したもので、実際に奥さんに対してどういう振る舞いなのかは人様の家庭のことなのでわからないのだが、普段の立ち居振る舞いからたぶん家でもそんな感じなんだろうなということでこう名付けた。

特徴は、「これやっときました!」とその人をもち上げるような形で仕事をやっておいてあげて報告すると、ニヤニヤっと嬉しそうな顔をすることだ。このタイプは、意図的なのか無意識のうちになのかは別として、人に仕事をやらせて自分が楽できる状態になることを目指して行動する習性がある。仮にサラリーマンだとすると、やらなければ自分の評価に直に響いてくる仕事はそつなくこなすが、誰かが必ずやらなくてはいけないが評価に明確に響くわけではない仕事については誰かがやるまでうまくやり過ごすのが特徴。

こういう人に好かれたいのであれば従順なザキヤマ感(舎弟感)を出せばいいので付き合い方はある意味で簡単なのだが、従順な舎弟認定をいただき好かれてしまうと勤務時間内外問わず色々と押し付けられる可能性があるので、遭遇した場合仕事をこなす上で必要最低限を除いては距離をとるのが正解だと思っている。

仕事を自分以外にやってもらいたい場合、言わないでも部下とかが進んでそれをやってくれるような信頼関係があるのが言わずもがな理想だ。その信頼なり人望がないからこそなんとかして人にやらせる必要が出てくるわけだが、面倒くさくて人がやりたがらないことを自分の苦労を厭わずやってくれている人にこそ人は協力したいと心が動くのであって、自分の手は動かさず面倒なことを人にやってもらいたいだけの人に自発的に何かをやってあげようと人は思わない。このタイプはこの構造を理解していない、あるいは理解していても自分をなかなか変えられないところになんとも悲しい矛盾があると言えるだろう。でもたまにこのタイプで天然の人たらしキャラもいるので、これは何ともずるい人である。

 

赤ちゃんは泣くことで自分の意思を伝えて、ご飯なりおむつ交換なり誰かに動いてもらうしかないが、大人でも人に何かをお願いするとき1つのやり方しか知らない人は多い。多いのが、叱責することしか部下の動かし方を知らない上司だ。強烈で迷いのない指示は自分の実力への自信の表れとも言え、実際このタイプは仕事ができる人も少なくないように思うが、このやり方しか身に着けてこれなかったその人の今までの人生に思いをはせると他人事ながらちょっとした悲哀感がある。

こういうタイプは自分が反論を受けようものなら徹底的な倍返しがデフォルトだし、基本的に自分より格下と思う相手から意見をそもそも聞かない(聞く振りをすることはあるかもしれない)。一方、賢いがゆえに自分の昇進に影響力を持つ上司については非常に丁寧に接する習性があって、対応のそつなさとご機嫌取りのレベルが非常に高いことが多い。

対処法は、黙って素直に言うことを聞く従順なキャラを演じるか、熾烈な消耗戦は覚悟の上で反論すべきところは反論するかに分かれる。
前者の対応が上手くいって好かれることに成功した場合、その人の相手は楽になるがその人をあまり快く思わない人たち(マジョリティであることが多い)には「あいつイエスマンじゃん」と評されてしまう可能性がある。後者の対応だとその人の相手は非常に困難で色々消耗するものになるが、一部の人から骨のあるやつだと評され株が上がるかもしれない。
社交性に富む人であれば、その人を飛び越しさらに上の人、人事上大きい影響力を持つ上の人と良好な関係を築き、その権威をうまく利用しつつのお付き合いなんてのも良いオプションだと思う。

 

自分が損しないようにポジション取りできる能力は大事だ。

プロジェクトへ大して貢献もしていないのに最後だけひょこっと現れて手柄だけかっさらう人はどこにでもいる。こういう人は基本的に頭がいいし何より要領が非常によくて、人へのアピールがとても上手なのでプロジェクトの実情とかを把握していない人はころっと騙されていることがある。プロジェクトの中にいた人はもちろんみんなわかっているので、そういう第一次情報を持つ人たちが周りに伝えることを怠らないことが大事だ。

伝え方で真実なんていくらでも歪められるもので、その事実に辟易することも多い。それでも第一次情報を持つ人が諦めてしまい、いいようにさせていると、基本的に罪悪感など感じていない(人から評価をかっさらっている自覚がない)人なのでその人の人生の中で同じことをまた繰り返していく可能性が高い。同じような嫌な思いをする人が今後出ないよう、「中身があること」と「伝え方が上手いこと」は別物と割り切り、伝え方だけで勝負している人に伝え方でも負けないようにしてほしい、ものだが、
ただこのタイプも、この「上辺だけで中身のないやり方」が見破られて通用しないことになると今までそれで通してきた人生である故その人の人生そのものの否定になりかねない(ことを自分でもどこかでわかっているのだろう)ため、明確な対立スタンスをとると(その人が自分自身を守るための)猛烈な攻撃を受ける可能性があるので、自分が嫌な思いをしないための細心の注意が必要になることがある。

 

マイノリティにとってのチャンス

最近仕事をしていて、コロナ前だったら細かいところでいちゃもんつけられてうまく進まなかったり止められていただろうなと思われる案件がすんなり通るようなケースが出てきたように思う。「いずれは必ず来るけど既得権益やら古い体質やらでなかなか進んでいなかったこと」がぐぐっと劇的に進む可能性が今あって、その「いずれは必ず実現されること」の流れを前からきちんと理解していて準備もしてきた人にとってはすごいチャンスでもあるんだろうと。

テレワークになって同僚が今仕事で何に取り組んでいるのか把握しにくくなった側面があると思うけど、たぶん二極化しているんだろう。チャンスだととらえて進めるべきところに挑戦できている層と、何をしていいんだかよくわからなくなってしまっている層に。在宅勤務になって「やる仕事がない状態」になることを心配してしまう人を基本的に自分は信用していなくて、大きなミッションを理解してそこからやるべきタスクを考える力がない人だととらえている。今はたぶんそれが浮き彫りになっているからある意味面白い。後者の層は頼むから枝葉末節にこだわって前者の仕事を邪魔することなく、その枝葉末節の部分に黙々と取り組んでいてくれと思う。

 

正直9月入学について議論ができるほど知見は持ち合わせていないのだが、抵抗勢力が機能しにくい状態のうちに 幹の部分の議論で突っ走って、この「こういう時は様々な調整をすっ飛ばして一気にいく」のが大事だとは思っていて。いずれ(大して必要もない)剪定をちまちまやらされる日々が戻るのだろうから、自分が取り組める範囲では、今のうちに大きな流れを適切に読み抜きやるべきことを済ませておきたい。

 

とにかく頑張ればいい、こういう価値観に対してコロナ前の状況で議論をして、同調圧力に負けず合理的な案を通すというのは正直困難を伴うところがあったと感じている。ただ、同じ空気感をまとう人同士の雰囲気で決まっていた事項も、緊急事態ゆえに健全な議論が多少でも機能しやすくなっているとも感じている。

在宅勤務というコロナ前とは異なる環境の中、わかりやすく成果を出して周りに伝え、自分の発言権を高めておくことも今やるべきことのような気がしていて、自分の価値観が今いる環境の中で相容れないところがあるのを自覚しつつそれでも社会に還元したい成果があるのであれば、今ほど頑張り時もないんだろうと。

 

ほとんど内容的に繋がりないかもだがマイノリティという言葉をタイトルに使おうと思って映画を思い出したので..(そもそも映画のあらすじをほとんど覚えていない、面白かったのは覚えている。なんかドラマで続編も出ているらしい。)。


マイノリティ・リポート (字幕版)

 

マイノリティって言葉としては日本語にもちろん訳せるんだろうけど、日本では概念としてあまり使われる機会がない気がするのは、たぶんマイノリティも尊重するという意思決定過程にはとても大事な要素、価値が日本ではあまり認識されていないからなんだと思ったり。考えがまだ柔軟な若い時たくさん洋画見といてよかったんだろうな、なんて思ったり。

 

マスクの争奪戦

前回の記事の直後、免許更新業務の窓口が急遽閉じてしまった。行政として妥当な判断だと思うが、改めて振り返り、文字通り滑り込みで更新業務を終えた自分は果たしてよかったのか逆なのか。
窓口が休止になることを告げるアナウンスが出た時から実際に閉じるまでのタイムラグがあったとして(半日くらいはあったのだろうか?わからないが)、おそらくその間は駆け込み申請者で窓口が混雑していた可能性があり、そこを辛くも免れつつもひとまず更新ができたのを良しとするか(その混雑タイムラグの間にわざわざ更新に行ったんじゃないかという疑いの目を向ける人がいて、普段の自分の信頼のなさを思った)、今はまだ準備が済んでいないが近いうちに窓口に行かなくても更新ができるようになるのに(ウェブ完結の実現)わざわざリスクを冒して窓口に行った愚か者になるのか。(自分は愚か者でいいから)願わくば後者であってほしく、劇的な業務改善を心から期待したい。というか自分がこういうまでもなく、数カ月後に既存の窓口受付のオペレーションを同じように再開しかつそれを継続しても全く問題ないと判断できるまで事態が好転するとは考えづらいので、一旦更新手続きの延長を可とする対応でしのぎつつ今まさに新しいやり方を検討、構築している最中だと想像する。

 

鎌倉シャツというブランドが好きで、もうだいぶ前から継続してシャツを購入してきている。最初の出会いは、海外旅行の帰りの羽田空港内のショップだった。アイロン不要のニットシャツなるものを初めて知り、デザインや風合いの爽やかさも気に入り以来ファンになった。当時は会員カードがまだ厚紙カードにスタンプを押すタイプで、羽田空港店の購入からだいぶ時間はかけたが1枚分のスタンプを埋めることができ、たのだけどそれがいまだに5000円分のお買物券として使えていなくて、その意味でもコロナ終息後、買い物などに気軽に行ける日が待ち遠しい。私の滑舌が悪かったのだろう、店員さんが名字を一文字間違え書いたままで何年も、財布もいくつか乗り換え一緒に過ごしてくれた会員カードとのお別れは、少し名残惜しくもあるけれど。

メルマガも登録していてよくサイトも見るのだが、昨日18時過ぎ受信のメルマガで「シャツ屋がつくるMASK 販売スタート!」というタイトルが目に入る。ちょうど使い捨てのマスクも在庫が切れそうでどうしようと思っていたところで、金額はそこそこするがシャツ同様センスのよい上質な印象、夜な夜なサイトを物色していると、アクセスが集中しているようで頻繁にサイトに繋がらなくなる。巷で話題のマスク争奪戦動画@コストコと同じことが、物理的な取り合いか仮想空間での取り合いかの違いはあれど、今まさにこのサイト上で起きているのかと軽くショックだった。

メルマガ配信から翌日の午後でもサイトに繋がりにくい状態は続いているようで、さらには予約販売のアナウンスで当初は5月中お届けとあったのがいつの間にか6月のお届けに変更されていた。ドラッグストアに朝から並べる人・並べない人、ゲリラ販売にしてもお店の中で座り込んでずっと待つ人、あるいは色々言われているアベノマスクの話、マスクについては色んな見方や話があるかとは思うのだが、たかがマスクされどマスク、どこか楽観論が残っていた少し前までと異なり事態が長期化することへの覚悟が世の中で広まっていることをなんとなく感じたところだった。

今後の見通しについて、賢い人がネットでわかりやすく示してくれているものは私が見つけられる範囲でも既に出てきていて、もはや無料でこれが読める時代に感謝するしかない。

COVID-19と世界のこれから(draft as of 2020-04-16)|Taejun|note

そろそろ全体を見た話が聞きたい2 - ニューロサイエンスとマーケティングの間 - Between Neuroscience and Marketing

 

さて、アベノマスク政策は、これほど政策コストと政策手法を国民みんなが知り、成果も自分たちで(なんとなくでも)評価できるという点でそう他にはなかったレアで貴重なケースであるように思う。シェアしてほしいと自らSNSで政策意図を解説しつつ炎上してしまった政府関係者の案件の解説として、こんなnoteの記事がある。

アベノマスク炎上の正体|千正 康裕|note

政府が補償してくれるお金も給付金として撒いてくれるお金も全部自分たちあるいはその後の世代が支払う税金なのであって、そして社会の運営は国民と為政者の間のコミュニケーションなのであって、せめてこれからの長期戦が健全で建設的なコミュニケーションの中進められるよう、社会不安の高まりが最低限で済むよう、小市民としてできることに努めたい。

変化はじわりと

この時期に免許の更新のタイミングが重なってしまい、更新手続きに行ってきた。

更新手続きの期限延長もできるとのことだったのでどうするかしばし考える→延長申請をするのにも窓口に一度行かなくてはならないとのことだったのでそれなら一度で済まそうと思う→延長申請の郵送受付も対応可になったと聞きそれならどうしようとまた考える→延長したからといって数か月後事態が収まっている保証はどこにもないし、逆に延長した人の分申請予備軍が増え窓口が混雑する可能性が高まる→それらすべてを解決する「ウェブで全て更新手続き終了」みたいな制度変更も、そうなるまでさらに更新手続きを待ってくれる柔軟な対応も、役所だとまず期待できない→であるなら今のうちに行ってしまおうと。

自分と同じように考える人の存在や、仕事もなくなって時間がある人が増えているだろう状況とかで逆に混んでいるんじゃないかという懸念も少しよぎったが、結果的にはそんなに混んでいなくてよかった。
おそらく以前は閉め切った個室でやっていたのであろう講習を、空間的にはロビーと一続きになっている換気の良いスペースに変えるなどの工夫はあり感染予防の意識は感じたが、受付→手数料支払→視力検査→写真撮影→講習のそれぞれの待ち時間のためのスペースがあまり広くなくて、申請者同士のいわゆるソーシャルディスタンスを常に確保できるようなオペレーションの準備はなかった。私の時はすいててまだよかったが少し混む曜日の混む時間帯だと「不特定多数が密に集まっている状態」をつくりかねず、そりゃ行政がこのレベルの意識だと民間事業者のソーシャルディスタンスの対策も徹底されるわけないよなと近くのスーパーの様子を思い出し納得してしまった。

更新講習を受ける部屋の、社会的立場も様々な老若男女がたまたま集まった感は非日常を感じてなんとなく好きなんだけど(ガンツをイメージしてしまう。あと多様性で連想するのはちきりん氏の文章)、「受付→手数料支払→視力検査→写真撮影→講習」というシンプルなオペレーションがなぜ今も対面でなければならないのかはよくわからない。緊急事態宣言が出ている今でもこれだと、免許更新の場でクラスターが起きましたくらいの事件が起きない限り、ウェブで全て完結みたいなオペレーション改善は行われないのではないか。

 

311の後も世の中の多くの無駄なことがそのまま残っていて、あれくらいの危機が起きてなお変わらないのであれば、もうこの国は財政破綻くらいまで行かないともうこのままなんだろうなと思っていた。

でもこのツイートのとおり、たぶん変化というのは少しずつ起きるもので、少しずつだけど確実に世界は良いものになっているというのは確かな現実なんだと思う。例えば今後テレワークは文化として根付くだろうし、ウイルスとの共生という今まで一般の人がほとんど意識してこなかった課題に多くの人が関心を寄せるようになり、それに伴い今回のコロナ終息後も少しずつ世界は変わり続けるだろう。

GOVTECHは少しずつでなく劇的に進行する世の中であってほしいけど。GOVTECHで個人的に注目しているのはこの会社。

graffer.jp

 

 


The next outbreak? We’re not ready | Bill Gates

 

このビル・ゲイツ氏の2015年TEDでの講演は今の状況をまるで予言したかのような内容で、もうだいぶ前から話題になっている。危機が起きてからではなく危機が起きる前に本当に賢い人の視点で取り組むべきことに着手しておくのが理想ではあるのだが、現実はそうでなかったのが今回明らかになってしまった。

ただ、単に人々が怠惰であり続けたからこうなったというわけではないと思っていて、むしろ大半の人々は目の前のことに非常に真面目に取り組み、社会が滞りなく回るよう日々働いていると思っている。大事なのはリーダーたちが大局観を常に持ち先を見据えた判断、行動を行っているかいないかのはずだ。

別にリーダーの立場にないごく普通の人でも、それこそ部分から全体を類推する力を備えていれば普段の仕事を通してでも「このままじゃいつかマズイ状況になる」と気づくことがあるはずだが、手持ちの仕事を抱えながらそこに切り込んで問題分析、問題解決まで繋げていくのは簡単なことではない。けど、空気を読みすぎて自分が空気になり、少しずつ起きているあるべき変化のため小さな貢献もできていないような人生にならないよう、小市民ながら生きていきたいとは思う。

豆腐に激詰め

だいぶ前だが、映画館で福士蒼汰主演の映画「ちょっと今から仕事やめてくる」を観た。ブラック企業に勤務、きついノルマ、上司に猛烈に詰められる、みたいなシーンがあったので、鑑賞後、一緒に観ていた人に「こんなパワハラ、演出上のものだよね」と言ったら「こんなん私の前いた職場では普通だった」と返され、自分がいかにホワイトな環境で生きてきたかを知った。


「ちょっと今から仕事やめてくる」予告2


いや自分もパワハラめいたことを受けたことはあるし、なんなら相手は過去に部下を何人もつぶしてきたことで部内でも有名な御方だったけども、それでも映画の中ほどあからさまにはやらなかった。銀行なんかは詰める文化が一部あるんだろうなというのは銀行員をやってた友人の話とかからなんとなく思っていたが、シェアハウス騒動のときのスルガ銀行に対する第三者委員会の調査報告書を読んでからは友人の話はたぶん盛ってたわけじゃなかったんだなとわかり、翻って考えたら全然大したことないかわいがりに翻弄されていた自らの豆腐メンタルを恥じるのであった。

世の中に激詰めは必要ないとは思うが、組織としての人材育成上、適切な指導は必要だ。指導すべき立場の人がお人よしが過ぎる人たちばかりだと、指導が必要な場面であっても相手との摩擦を避けそのまま放置してしまうということが結構ある。
自分の新人時代を振り返っても、当時の温和で優秀な上司への感謝の念は尽きないのだけど、一方で当時もう少し厳しく指導を受けていたら成長速度も違ったのではないかと思うし(パワハラめいたことをしてきた上司の時はきつかったが仕事への姿勢や特定の能力はその時だいぶ改善された)、自分より若手の人たちを見ていてもこの人はこのままだと伸びしろがなくなってしまうだろうなと思うことがままある。新卒で入ってきてもうだいぶ経つのに言葉遣いが社会人としての基準に達していないとか、外線の電話対応で周りの目を気にせず感情を露わにしてしまうとか、あるいはもう何年も職歴があるのにエクセルの基本的なマナーがなっていなかったりとか。

同僚や部下上司の間で適切なフィードバックがある組織は間違いなく組織としてのパフォーマンスが上がる。仮に嫌われ役になる可能性があっても適切な指導役を買って出てくれる人は間違いなく組織に貢献しており、もちろん指導の対象の後輩や若手職員にも将来的に必ずプラスになることだ。

ただ、さじ加減は難しい。パワハラをしている人は自分では相手のためによかれと思ってやっている場合が多いし、何から何まで小言を言ってしまっては適切な指導とは言えない。ここからここまでが正解なんてわかりやすい基準も存在しない。

至らないところを指摘してもらえないことで自分が後々恥をかいたり能力を高める機会を逸したりするよりも、指摘なり指導を受けることで気づきの機会をもらい自分を高めた方がどう考えても正解だろうと100%信じていた時期があって、その時はよかれと思ってしばしば率直に自分が思うことを相手に伝えていた。しかし伝えた相手方から(豆腐メンタルにとっては)誹謗中傷とも感じるレベルの反発を受けそのことにより自分も少なからず精神的ダメージを受けてしまったことがあった。

それ以来、人に「こうした方がいいと思うよ」と伝えることを極力控えるようになった。より正確に言うと、自分が嫌われてもいいからその人の将来がよりいいものになってほしい、そう思えるくらい相手方に魅力を感じていない限り伝えることをやめた。

こう決めたことでよかったのは、私自らに対しては言われないより言われたほうが絶対自分にとってプラスになるという価値観は変わっていないので、改善すべき自分の何かに相手が気づいてくれた時それを伝えてもらうためには「自分にも魅力がなければいけない」と思えるようになった点だ。労力を割いて指導する価値もない部下だと思われたり、エネルギーを割いてあえて苦言を呈する価値もない友人だと思われたりしないよう、自分を律する動機があるというのは良いことだ。

違うものを同じもののように扱わないで

緊急事態宣言が出て以降、私の職場でもリモートワークで仕事が回る体制の整備が一気に進んだ。業務の精査がドラスティックに行われ不要不急の仕事はバッサリ切られ、電子で仕事が完結するよう業務フローも改善が進んでいる。しかし同じ社内でも部署によってリモートワーク導入の進み具合がかなり異なることも耳にしていて、こういうとき決断力と実行力があるリーダーが率いる部署に所属していることのありがたみを痛感する。前例を盲目的に重んじる、以前仕えていたようなリーダーの下今の状況にいたらどうなっていたかを想像するのはそれだけでフラストレーションだ。判断の質と速さは、その人の今までの積み重ねが出ているようで興味深く、恐ろしい。

 

経験と思考の繰り返しにより自分の頭の中では確立しているような理論でも、いざ言語化しようとするときれいに言葉にできないことが多くて、そのもやっとした何かを頭のいい方がわかりやすく表現してくださっているのを見つけたときはとてもうれしくなる。

自分が見てきた上の人、上に行くような人のほぼ全員が「他人から与えられた仕事をうまくこなせる(だけの)人」で、自分でマネジメントをする立場になった途端価値の出せない普通以下の存在になるというのを飽きるくらい何度も見てきた。ソルジャーとしてならものすごく優秀なんだけど指揮官としては残念な人に仕えることを何度も繰り返してきたともいえる(そんな環境にいる自分が一番残念だという話はどこかに置いておいて)。

日本は学生時代からリーダーシップ教育が不足していて、言われたことを粛々とこなせる人材の育成に未だ終始している→学生時代に特別なリーダーシップ教育を受けることなく社会人になる→社会人になってからも与えられた仕事をこなすことで評価をされ自分の頭で考え課題を見つけてくることはむしろ余計なこととされる評価軸の中生きてきた→それでそのまま上に上がった時、いったい何ができるのだろう?とずっと思ってきた。人を率いる経験のないまま人を率いる立場になってしまい、指揮官の服を着てはいるけれども服の中(マインド)は兵隊のままという人をたくさん見てきて、地位は人を作るというのは少なくともこの場合は全然的を射ていないなと感じてきた。

入社試験をトップの成績で突破して、入社後も花形ポジションを回ってきた同期から相談を受けたことがある。ちょうど同期が社費留学制度を利用し大学院に行っているときで、テキストがあってやることが決まっている課題であれば難易度が高くとも人よりうまくこなせるが、自分でテーマから探してくる課題だといくらやってもダメだと。何度新しいテーマ設定を持ち込んでも教授からダメ出しを食らっているらしく、私も思いつく限りのテーマを情報提供したりその分野に詳しい知人を紹介したりしたが、一方で内心では、実務経験を経て院生やってる人に期待するテーマ設定なのだから自分の実務経験とそれに対する問題意識を掘り下げて見つけるしかなくて、人に聞いてどうにかなるものではないんじゃないかとも思っていた。もちろん同期もそれは十分承知の上で聞いてきたのだとは思うが。
だいぶ落ち込んでいるようだったから「期待されているからこそのダメ出しだろ」と励ました。その同期も指導教授が将来自分がリーダーとして仕事の課題を設定する立場になることを見越しての厳しい指導であることをもちろん理解していたが、同時に自分がいかに言われたことをこなしてきただけで自分で考えることをしてこなかったかがよくわかったと嘆いていた。
今は元気にやっているようだが当時は精神的にもだいぶ参っていたようで、与えられた課題に邁進して評価されてきた人に対して突如違う評価軸を押し付け過度な期待を背負わせることが時にとても酷なことになりうることを知った。

大学で卒業論文を書いているとき、意識だけは高い学生だったので(当時は「意識高い」は純粋に誉め言葉だった)、若きほとばしる自らの課題認識からテーマを決め、文献を漁り、構成を練り、文章を書いていくという作業が楽しくてしょうがなかった。
学生の時、自分よりずっと要領がよく試験の成績もよかった友達から、論文の書き方について聞かれたことがある。色々と調べてはみたが何をどう書けばいいかわからないという相談で、見せてもらったノートには調べた内容がびっしりときれいにまとめられていた。問題意識(だけ)は強かった自分は、おそらく「こういう問題意識があるからこれを書きたい」というモチベーションの部分がそもそも強くないんだろうなという風に思いつつ、あまり良い助言もできず、そして自分よりはるかに高い成績をとれる人より優れた論文だけは書ける自分の能力が何なのかがよくわからなかった。

「日本では不作為をマイナス評価とは見なさないようだ」という記述はロバート・ゲラー氏の著書「ゲラーさん、ニッポンに物申す」の中にあったもの。これもまた自分がふわっと考えていたことがきれいに言葉にされていて感動した。

指示されたことをこなすだけで及第点以上がもらえて、自分で判断して行動しなくてもマイナス評価を受けないのであればもはや構造的に課題発見能力が育たない。育てようと思ったら、減点主義だけにならず、リスクを冒して成果をあげようとする人間を疎んじずむしろ積極的に評価する組織文化がないと。

もとより組織には与えられたタスクを高いレベルでこなす人も新しい課題を見つけてきて新しい価値を生み出す人も両方必要なので、だからこそ別のものとしてきちんと育成する必要がある。そういう意識のもと人材育成、キャリア形成が行われるのであれば、指揮官の服を着た中身が兵隊な人たちも、私の同期が直面したような困難に同じように苦悩する人も、受ける教育と就く仕事のちぐはぐな関係も、全てきれいさっぱりなくなるんじゃないかと思っている。