自分の危機管理の話だった

結婚してうまくいく人かどうか見極めるためには、2人で長期で海外旅行に行ってみるといい、という話をnoteで読んだことがある。短期で国内旅行よりかはイレギュラーなことがたくさん起きるし、そんな中相手と意向をどうすり合わせて計画を立てていける人なのかもわかるというような話で、なるほどなと思った。

自分にふさわしい生涯の伴侶かどうか見極める方法|松井博|note

 

危機の時こそ、人となりというのは露わになる。通常営業のときは窺い知れなかったその人の人柄が、イレギュラーな事態に直面したときは瞬時にわかってしまうことがある。平時はいつもニコニコしていて誰に対しても親切だった人が、大災害が起きたとき我先にと人を押しのけて自分だけは助かるよう振る舞う人だったとか。
ウイルスで社会が危機に陥っているこんなときだから思い出すが、上司が、会社が危機のとき、逃げてしまったときがあった。ちなみにこの話を人にするときは「危機対応の上手さを自分はいつも褒められている」と普段から自慢していた人だった、とオチをつけることにしている。人にこの話をしたことは2,3回しかないと思うが。

周りに人気のある人だった。確かに陽気で人に好かれる雰囲気があり、部下として話していても不要な壁をあまり感じさせない、ざっくばらんに話のできる人だった。権力を持っている人とも良好な関係を築ける人で、それゆえに人事についての発言権も持っていた。仕事はあまり丁寧とはいえない印象だったが、上の人との付き合いはじめ世渡りが上手いのだろう、それまで順調に出世してきた人。金回りがいいことをひけらかしがちだったり学歴や経歴だけで人を見る傾向もあってあまり聡明だとか高潔だとかいう印象はなかったのだが、たまに目にすることのあったその方が書かれた文章は、なぜかいつも書き手の高い人格を感じさせる格調高いものだった。なぜかと言っては失礼かもしれないが、含蓄もある寄稿に私は正直唸らされ、誰かが代理で書いているのでなければ(これも失礼な話だが)、間違いなく自分がきちんと理解していないこの方の人となりが別にあると確信できるくらい素晴らしい文章だった。

とある危機が組織を襲った時、ポジションから当然求められる危機対応のマネジメントを放棄したうえで、まず物理的にその人は逃げた。翌日激しいクレームが数件来ていたようだが、その対応は部下にやらせていた。対応した人も役付きではあったが、リーダーの代わりに激しいクレームを一手に受け平謝りさせられる姿は、サラリーマンの悲哀をなかなか感じさせるものとして今も目に焼き付く。

この話のオチをつけたとき、聞いてくれた人が「その人の言ってた危機対応って自分の(保身の意味の)危機対応だったんじゃないんですか?」と憤ってくれたことがあったのがうれしかった。

 

自分がスケープゴートになったとき、何の疑問もなく無実を主張してくれる人かどうか。ずいぶん前だと思うが、SNSでフォローしている人が書いていた「友人として付き合う人の基準」で、私も真似しているつもりだ。私はその人ほど付き合いも広くなく、地位もお金もないので打算ですり寄ってくる人もいないのだが、それなりの年数を生きたからか人を見る目も少し磨かれたと信じ、付き合う人をより選ぶようになった。

1人で完結しない趣味で共通の趣味を持つ友達はとても大事で、あるいは1人で完結する趣味であっても共通の話題で盛り上がり共に掘り下げられる友達はとても大事なのだが、飲み友達として楽しいだけの人に積極的に声をかけることがほぼなくなった。アルコールによる昂揚感の中飲み交わす時間が楽しいものであることに変わりはないのだが、どこか信頼がおけないところが残る人と一緒に、仕事とか情報獲得とかそういう打算的な見返りなしに、ただ時間を消費することに意義を見出せなくなってしまった。そのため昔に比べると交友関係も狭くなってしまいそれに伴い視野も狭まってしまった感があることには改善の余地がある気はするが、本当に大事な人に割ける時間が増えたという点で正しいのだと思っている。