マスク警察

今の職場では優秀で人格もできている人に囲まれて仕事ができており、プライベートでも会いたい人にしか会っていないので対人関係で大きなストレスに見舞われることは最近ほとんどなかったのだが、久しぶりに近づいてはいけない人に会った。

巷で話題のマスク会食について、「国民みんな」が当たり前にやっていることだからあなたもやりましょう!と真顔で言ってくる人で、心底ひいてしまった。マスク会食の意義を否定するわけではないのだけど、その人はやらない人を平気で攻撃(言葉によって)できる人だったので、自分が正しいと思っていることは他人もやらなければいけない、やらない人は悪だと本気で思い込んでいるようでそれが心底怖かった。学歴もあって社会的にも良いとされる職業に就いている人だったので、たぶん戦時中ってこんな感じの人たくさんいたんだろうなとすら思った。

民主主義社会において、法律など民主主義の適切なルールのもと人に強制できる義務付けと、行政などから強制力を伴わないお願いベースの情報発信の違いをたぶん本質的に理解できていなくて、おそらくこういう人が危機のときに自分の信念に基づいて人を傷つけられるんだろうなと思った。というか人を傷つけていることは自覚しているようで(傷つけてごめんなさい、でも私が正しいの、というスタンスらしい)、自粛警察のような、自分が社会を守らなければという立ち位置なのだろう。

もちろんマスク会食はじめやるべきことを徹底できることはとても尊いことなのだけど、誰もがそれを徹底できるわけではないことを許容できないと、民主主義が民主主義でなくなってしまう。人が人に何かを強制させることは非常に重たいことで、だからこそ人に罰を与えられる法令は非常に厳密なプロセスをもって設定される。いくら正しいことであっても、個人が個人の判断で人に何かを強制させられるとしたら、もうそれは民主主義の社会ではなくなってしまう。

「価値感の違いだから追及はしません」と言いつつ相手を傷つける言葉を選んで相手を攻撃できるのは、インテリの皮をかぶった弾圧者だ。問題はマスク会食が正しいか正しくないかではなくて(感染予防上正しいか正しくないかで言えば間違いなく正しい)、マスク会食以外の方法で感染を予防するため工夫をする(テイクアウトにする、食事は一気に済ませた後にマスクをしながら会話をするとか)人すら否定できる極端な思い込み、マスク会食をしない人を非国民がごとく個人の権限で恫喝できると思っていることだ。

その人はお酒を飲まない人みたいだったが、外食を控える人に対して、逆境のときにルールを守って外食楽しんでる自分すごいという姿勢をとれるのにも心の底からひいた。今政府が必死になってやっているのはどうやって飲食業界はじめ経済活動を維持するかであり、いわずもがな飲食業界はアルコール類の販売での稼ぎの幅が大きい。自分の環境の外をイメージできる想像力の欠如と、マスク会食発信の本当の意義は感染状況は「もうそれくらいしなくてはやばい段階」というメッセージを世の中に発信したことで、「10割の国民がそれをやらなくてはいけませんよ」というメッセージではないことを理解できていない教養のなさ。

最近いつも同じ道、同じ時間帯で、マスクしろとものすごい大きい声で叫ぶ男性を見ていて、緊張状態になると人の思考は攻撃的だったり極端なものになるというのを肌感覚で感じていて、事態が継続するにつれ、もっと色んなところで問題が露出してくる気がしていて、少し怖くなってきている。

テンポのあるセンス

日常の生活の中にもちょっとした気づきはあって、このふわっとした気づきから何か書きだせるなと思う瞬間はままあるのだけど、それは本当にふわっとしたものだから、そのとき感じていた感覚は時間と共に静かに消えてしまっているようで、仮に単語レベルでメモを残しておいたとしても後日書きだそうとするともうその時の感覚では表現が綴れないことが多い。その時書いておけば何か残せたかもしれないと思うともう後悔しかないのだが、もうこれは書くことが習慣化できていない自分のせいでしかない。

 

組織で働いていると自分の書いた文章をてにをはから何から稟議の過程でいじられることがあると思うのだけど、自分が結構な時間をかけて繊細な文と文との繋がり、頭から尻尾までの美しい文章の流れ、それを構成する各単語などを考え抜いて紡ぎだした文章がいじられにいじられ逆に劣化した形で最終形としてアウトプットされるのはなかなか耐え難いところがあって、組織人としての宿命だとは思いつつ、自分が生み出したはずの表現をある種傷をつけられた形で世に送り出し、人様の目にさらされなければならないのは、例えるなら自分が時間をかけて色々仕込んだ自慢の弟子を、後に変な流派とかに変な影響を受けて型が少し乱れてしまった後、自分が育て上げましたと言わなければならないシチュエーションみたいなものじゃないかと感じている。

その点ブログは誰にいじられるわけではないのでその心配はないのがいい。評価も全て自分でかぶるので自分の小ささを感じざるを得ないのも。たぶん不自由であればあるほど生み出せるものというのはあって、制約の中でこそ生み出せる価値はあると思っている。というか完全な自由というのはおそらくどこにもなくて、大小あれどどこか不自由な中それを前提に適切にアウトプットできるのがたぶん社会に価値を生み出せている人なんだろうと。

 

文章もそうだけど事業立案とかにセンスを感じる人・そうでない人はどうしても分かれて、よく選手として優秀な人と監督として優秀な人は違うとスポーツの世界でも言うように、才能やセンスに溢れた人は自分の感覚を人にうまく教えられないことは多いと思う。なんとなくこの人提案の方向性違うんだよなとは気づいてもそれがどうして違うのかがうまく伝えられない。スポーツや芸術に限らずビジネスの世界でもそれはある程度通じると思っていて、センスのない人はセンスのない提案を繰り返すし、しかもそれに自分で気づいていないことが多い。(気づいていないからこそ繰り返す。)

絶対的に先天的なものがモノをいうスポーツや芸術の世界とは違って、ビジネスのセンスは後天的にも磨くことができるとは思うのだが、同時にそれは短期的に磨くことは難しくて長期的に磨いていく必要があると思っている。すなわちセンスのある生活や人付き合いや学びや経験が求められるわけで、そういったものを主体的に、時に有能な師に導かれながら選択していく必要があるわけで、そしてこの選択も同様にセンスであって、有能な師に出会えるのは偶然もあるがその人がそれだと気づき教えを仰げるのもまた主体性でありすなわちセンスであって。

どうしようもないセンスのなさで決められた方針だったり目標に巻き込まれないのは組織人としては結構大事で、つまり泥船かそうでないかをきちんと見極めて生き抜いていかなければならない。働く会社をきちんと選ぶことも然りだが、着いていく上司をきちんと選ぶことも処世術としてとても大事で、それでいてセンスのない上司から波風たてずフェイドアウトしていく技術も大事で、今自分はそれをとても求めている。センスのない人は自分がそうであるとは思っていないわけなので、言ってみればプロ野球選手になれると思っている子供に才能ないよとほのめかすのは結構な確率で後腐れがあるわけで、自分の意見を空気読まず言いがちな自分には習得の難易度が高い世渡りスキルなのである。

 

「あなたの判断でいいよ」と言う、言われることはままあると思うのだが、この時実際は純粋に自分で100%判断してよい、できるわけではないことが多い。「あなたの判断」でいいよと言った人との関係性がたぶん一番判断を左右してしまう要素で、それが自分の格上の上司だったら?力ではかなわない男性だったら?相手の意向をある程度汲んだ判断をしてしまうのではないか。

先日、AかBかという二択を求める場面で、ある新人(女性)にとってBという選択肢が望ましいのに、同僚(男性)があからさまにAという選択肢を一度提案した上で新人にAかBかの判断を求めるという場面を見てしまった。Aを提案した同僚にとっては新人がBよりAを選ぶ方が都合がよかった。自分はその前にBの選択肢をチームで共有する形で新人に提示していたが、本人の判断という形に持っていかれてしまうと上下関係のほぼない即席のチームだったのでそれを押し通すこともできず、そして結局新人はAを選んだ。

 

 

好きな映画であり、才能だとか師だとか個人の判断を考えるにも良い映画だと思う笑


セッション / Whiplash 海外版予告編

人望のある人

昔は「人望がある人」が実在するものだと思っていて、自分自身もそうなることを目指していた、いや少なくともそうなることを望んでいたように思う。誰にも好かれ、慕われ、自然と周りに人が集まる人。

ただ今はそれは幻想だと思っていて、野村克也氏の言葉「35歳を超えて敵がいないということは、人間的に見込みがないということである」に表現される、何かを成し遂げようとすれば、敵は当然できるというような思想がその拠り所だ。

誰からも好かれ誰にも嫌われないとしたら誰に対しても自分を合わせなくてはいけなくて、そこに自分というものがなくなってしまうように思う。自分というものを常に演じ続けなければいけないのは本人にとっても苦しいだろうし、どこかで周りもその演技に気づいてしまうような気もする。自分の場合、困っている人を助けたいという目的があって他人に積極的に近づくことと、仕事上の社交など何か具体的な目的があって相手に合わせるのは苦ではないのだが、人付き合いのためだけに自分を演じるのが苦手で、実際友達も多い方ではないと思う。

 

それなりに深く付き合ったことのあるいわゆる友達の多い人がいて(仮にAとする)、自分は最初Aのことを人望のある人だなと思っていた。周りに人が絶えなくて、いつも笑顔で明るい性格。

それなりの期間Aと付き合った結果、周りに人が多いのは最初から最後まで変わらなかったけど、途中から自分のAへの印象はがらりと変わって「人を選んで態度を変える人」という印象になった。

明るく、外見もよく見栄えもして、誰とでも初対面で打ち解けることができる。SNSの友達の数なんかもすごくて、一度投稿したら多くの友達から反応がある。でも自分はAが人によって約束をすっぽかしたりあからさまに応対を変えるのをとても近くで見ていて、その姿はとても自分勝手なんだけど、自分が邪険に扱った人から多少嫌われてたとしても自分が近くにいてほしい人はちゃんと近くにいるようになっていて、結果自分が望む人間関係を手に入れていた。

たぶんAの人を選ぶ基準は、単純な好き嫌いも当然あるのだろうけど、たぶん自分のために役立つ、とまではいわないものの広い意味で「自分の人生のプラスになるかならないか」で選んでいた気がして、万人に当り障りのない付き合いもできる社交性を持ちつつ、自分の恵まれた家庭環境を臆さずひけらかし、必要であれば平気で嘘もつける、地頭の良さに裏付けられた合理的な生き方は自分にないものとしてうらやましくもあった。

 

「敵がいないとダメ」というのは、自分の意見もやりたいことも成し遂げたいこともない人には敵なんてできようもないという意味だと思っていて、世の中には人の数だけ方向性が実はあって、そこで突き抜けようと努力している人なら当然周りとの摩擦は多かれ少なかれ存在するんだと。

Aは信念をもって何かを成し遂げるため突き抜けようとしている人ではなかったけれど、自分の好きなように人付き合いをしていて、周りを気にせず自分の人生やそれを形成する自分を取り巻くきらきらした人だけを全力で追い求めているという意味で自分は羨ましかったんだと思う。

自分がAの生き方に共感するかというとそうではなかったから今は一緒にいないわけで、Aが自分で選んだ限られた世界で人望を実現していること自体へはあまり羨ましさも感じなかった。(少なくとも自分には表面的な人望に見えた。)

別の例として、昔仕えたことのある、日本でもトップレベルの頭脳を持つであろう上司が周りとの摩擦を気にせず難易度の高い事業をばんばん実現させているのに部下からの信頼がほぼないまま一人で前に進んでいるのを見ていたとき、個人としての能力の高さと組織を従え組織として成果を出していく能力の低さがアンバランスに並存していて、頭脳明晰な部分への畏敬はあれど職業人としての魅力はもちろん生き方として羨ましさを感じることができなかった。

自分は、自分のパッションが周りに伝わり周り(全員ではないにせよ)が自然と応援してくれるような道をいいなと思う。Aのように最初から世界を切り取りそこにだけ好かれようとする生き方でも、昔の上司のように周りは理解できないし理解してくれないでもいいというのでもなく、自分で勝手に切り取らない世界そのままを理解しよう、そこに理解してもらおうとまずしたうえでなお摩擦を恐れず自分の道を突き進むのが、たぶん本質的に人望のある人とない人の違いなのではないかと思うからだ。

アナザーストーリー

先日とある老舗でうなぎのコース料理を会食の機会に食べた。
飲み放題付きで、感覚的に料理だけで一万はするだろうなという食事メニュー。ドリンクメニューで稼ぐのが飲食の鉄板だとは思うが、すぐに飲み干せてしまう小さいコップにビール瓶、会食なのでがばがばグラスを重ねる人はほぼおらず、頼んでみたハイボールは薄めの角ハイ、どう考えても飲み物代だけでお店はぼろ儲け(ウイスキーも、ストレートでどんなの出てくるか頼んでおけばよかったと少し後悔)。有名な老舗で内装はもちろん豪華で、スタッフはたくさん配置されている店でその辺の不便はなく、価格設定は決して暴利ではないのだろうが、コロナ渦の飲食店貢献のためのような会食だったなと。
コロナ渦により、テーブル間の移動やお酌も憚れる中、それはそれで余計な気遣いを人にする必要もなくよかったといえばよかったが、会食は参加者のコミュニケーション、その結果としての関係性構築に本質的に意味があるのであって、プールしてた交際費を使いたかったのはわかるけど達成したい目的とそれに応じてかける予算の関係がちぐはぐな我が社のいつもの感じが振り返るとそのまんま現れていたなと。うなぎのコース料理あるあるで、うな重が出てくるときにはお腹が一杯で十分楽しめないという、というかそんなに旨くもなかったような。

このツイートを思い出し、後日吉野家で豪勢にうなぎの二枚盛を頼んでみたがまた食べてみたいとはあんまり..
以前静岡の古びた店、おじいちゃんおばあちゃんが二人でやってるような小さい店で食べた白焼き(確か3,000円くらい)は絶品だったな。うなぎの良し悪しは難しい。

 

ちょっとしたアレンジの中にその人の本質的な一面が現れることがあるのは面白い。会話の中に、ぽろっとこぼれ落ちる発言の中にその人の性格的な部分が感じ取れる瞬間も。友達として付き合うのは楽しい人だけど仕事で負荷を与えるとダメになってしまう同僚に、共通の知人が「学生の気分のまま仕事をし続けていた人」とぽろっと率直に評価していたのを私は嫌いではなくて、ときおりこぼれる毒の入った直球の発言にドキッとしつつも、本音はひた隠し誰も彼もデキルやつだとほめている八方美人な人よりよっぽど信頼できる人だと思っている。

 

朝、小学生の登校時間に横断歩道で旗を持っている保護者たちが自分はあまり好きでなくて、何のためにそこにいるのかを考えないままなんとなく言われたまま役割をこなしている人たちばかりだと思っている。ミッションが「交通事故を起こさない」ではなくて「子供がいるときに旗を掲げる」ことだと勘違いしている人がほとんどだと感じていて、小学生が渡り終えた後旗をおろしてしまい、それで加速した車にその後渡ろうとしていた自分がひかれかけたことがあり、ただ役割をこなしていることがプラスもないがマイナスもない無害な存在だったらまだしもマイナスの有害にもなり得る存在は本当に何のためにいるんだろうと。 別の日、赤信号ぎりぎりで子供を横断歩道向こう側まで送り届けた人がその後自分は元いた側まで戻らなければいけなかったことに気づき、歩行者用の信号がもろ赤信号の中トラックが右折しかけているのを構わず横断歩道を駆け戻っていたのを見た。交通上も、子供のモデルとしても、100%害でしかない。

所得の比較的高い層が住んでいる地域で、高等教育を受けた人も多いはずなのにああなってしまうのは何か日本的な教育が最終的に生み出すアウトプットを感じざるをえなくて、与えられた課題に対して深く考えることなく安直に答えを出し対応をすることで許され、周りも事なかれで物事が進んでいることの積み重ねで日本の社会はできているんだなと、うなぎの会食のことも結びつけつつ残念な気持ちになる。
旗振りをお願いしただけで満足してオペレーションの質を全然担保できていない学校側に一番の責はもちろんあるのだけど、たぶんこれは事故が起きた後じゃないと変わらない典型的なケースだろう。問題が起こる前に対策をするのでなく、問題が起きてから対策が始まるのがいかにもで、情けなくなる。

 

個別の行動が積み重なって大きな問題として顕在化するまでは個の責任は問われない、そういう「不作為をマイナス評価とみなさない」社会の環境に甘え、自分で考えることをやめてしまうのは、いわゆる偏差値の高い人ほどその傾向があると思っている。環境に対して最適解を出せる人は多いのに、そこから掘り下げて課題を自分で設定できる人が少ない。

大学時代の同級生でこれ系の人がいて、卒業後高給で有名な企業の営業職に就き、社内でも将来を嘱望されるくらい適性も評価も伴っていたみたいなのに、結局転職してパブリック系の仕事に就いた。ワークライフバランスの意識を基にした選択なのか、もちろん本人の頭の中にしか答えはないのだけど、圧倒的な成功も望めた才能が空気を読んでほどほどに仕事をすることが環境に対する最適化になりがちなパブリック系の仕事に収まってしまったことは、同窓で学び才能に嫉妬した人でもあるだけに正直残念に思っている。

率直に言ってあまり性格はいい方ではなかったがだからこそ営業向きで、いい意味で周りに流されず合理的に考え行動を選択できる適性を活かすべきところで活かしていたら今はどんな風になっていただろうと思うときがある。時折流れてくる今の仕事っぷりの噂は、自分が想定したとおり環境に対する最適解としての仕事の向き合い方になっているようで、本質的な成果に才能と努力を全部突っ込んだ場合のアナザーストーリーを夢想するたび、なおさら残念だと感じる。

才能があって、1つ上の世界に行くためのノウハウを吸収する柔軟性があってストーリーを紡ぎあげていくというのはたぶん時に本人の力だけでは難しくて、本人の選択がより望ましいようになるよう、第三者的な立場で導いてあげられる誰かの存在が大切なんだろうなと思う。

 

柔軟な姿勢や考え方を形成していくため自分以外の思考やストーリーを意図的にでも自分の中に流し込んでいくのはとても大事で。昔すごく面白いと思ったことだけ覚えていてあらすじも何もほとんど忘れてしまっていた映画バニラスカイのことをファイアパンチを読んでいて思い出した。


バニラスカイ 予告 ダイジェスト Vanilla Sky Trailer

鑑賞の恩恵

ブログという仕組みができてまだ間もない頃、仲間数人で、それぞれが観た映画の批評を投稿できるブログを作った。もちろん普段も仲間内で映画の話はしていたのだが、それぞれが自分の感想を文章にしたものを読むのは何か新鮮で、こいつこういうこと考えてたのか、なんてのがわかってよかった。普段は寡黙だが嬉々としてたくさん投稿する人もいたりして、ブログを始めること自体は自分の発案で主導もしたのだが(記憶を美化していなければ)、自分は誰かが活きる仕組みを用意する役回りが好きで、またやりたいことであることに気づく、ある意味原点に近い経験だったのかもしれないなと振り返ってみると思う。

 


ピンポン

 

たしかピンポンはその頃くらいの映画で、漫画も読んだことあったと思うのだが、漫画の独特の世界観も魅力的ながら、それを映画でこう表現するとかスゲーと思った記憶がある。大倉孝二氏は漫画のキャラの再現度含めてすごい役者さんやと強く思った記憶も。また、窪塚洋介氏とARATA氏は当時より今の方がカッコいいんじゃないかというくらい、いい感じの歳の取り方をしているのはなんともうらやましい。

 

note.com

 

高井浩章氏のマンガ論が結構好きで、その高井氏がこんなツイートをしていたので「捨てがたき人々」を買って読んだ。

正直過激な内容で読む人を選ぶと思うし、人によっては過激な性的描写だけで生理的に拒否反応をする人も多いと思う。きちんと読み込まなければ内容をしっかり理解することもおそらく叶わず、簡単には人におススメできない。

すげえの買っちまったな..と思うのと同時に、ジョージ秋山氏がなんとも骨太な表現者であることはなんとか自分の頭でも理解できた。同作は映画化もされていて、ある意味救いようもないあのストーリーを、どう映像で表現したのかは正直ものすごく見てみたい。

たぶんもうお気づきかと思うのだが、私は映画や漫画、というかあらゆる作品の批評が苦手で、批評をするのも読むのも正直あまり興味がない。最初の映画批評のブログの話も、発案者である自分はあまり数を投稿できていなくて、書いても他の投稿と比べて量も少なく大した考察もできてないものだったと思う。たぶんその辺のセンスが絶望的に欠けていて、だからなのかそれ以外の性分なのか作品への評価は直感的なものでいいと思っていて、極端な話「いい」か「悪い」かだけでもいいと思っている。

鳥山明氏は子供時代、映画を何度も何度も繰り返し見て(映画館がまだ入れ替え制でなかった時代、1回見て、そのまま席で次の上映を待ち、もう1回鑑賞することができた時代)、その経験から、自分で描く絵の構成を考えるときも過去にたくさん観た映画から参考になる構成を記憶の中から引っ張り出してきて描くことができるんだ、当時の映画鑑賞の経験に感謝、なんて話をドラゴンボールのコミックそでのコメントで読んだ記憶がある。

私も映画は人並み以上には観ていると思うが、その経験からそんな恩恵を受けているかというともちろんそんなことはなく、じゃあ何か別に恩恵があったかというと、たぶんあるとしたら、「誰かの好きな映画の好みが自分と一緒だったりするとなんか嬉しい」とかそんなもんだと思う。
最近おススメの本とか映画とかをSNSでリレーで回しているのをちらほら見かけるけど、個人的には不幸の手紙みたいで誰かに何かを強制してる風なのが嫌いなのだが(バトン仮に渡されても受けないと思う)、もともと仕事の面でも尊敬していた人のおすすめ映画のセンスが良すぎて、やっぱこの人いいわと思った。自分がいいと思っている映画を、尊敬している人もいいと思っていることがとてもうれしいし、センスのいい人のおすすめの映画(本とかも)があれば観てみたいと思う。そういう感性は観た(読んだ)量で身につけるしかなくて、「いいな」とか「センスないな」とか、「合うな」とか「この人とは感想合わないな」とか、そう感じられること自体が積み重ねてきた鑑賞経験の恩恵なのだろうと。

 


八日目の蝉

 

いい映画の予告編っちゅうのはどうやってもいいものになる。あと中島美嘉氏の声っていつも映画にすごくハマる声だなぁと思うのは自分だけだろうか。

人はなぜポエムを

プライベートの知人で、かなり大きめの会社で定年まで勤め上げ幹部と言われるくらいの職位までいった人たちが、コロナ渦の中こぞって同じような行動をとっていた気がする。コロナ初期の頃ころっとデマに騙されチェーンメールを(おそらく多方面に)あなたのためだからと熱心に送っていたり、俺はまだ現役だとばかりにその分野の識者を装いSNS上で政権批判や自治体批判などおっぱじめたり。社会人という立場を離れた個人が社会との接点をどう求め、どう振る舞うのか。尊敬するところも多かった人が老害になりかけているところを見せられ、いずれ自分もそうなるんだろうかという漠然とした不安、いやそうならないために意識的に少しずつ日々の行動や学習に工夫をこらす仕組みが必要だという危機感を感じたりする。

仕組み化した日々の積み重ねは自分の書く文章にも多かれ少なかれ出る気はしていて。コロナ渦で本を読む時間に恵まれているので、書いた文でその人の中身が透けて見えるような経験が何度もできて面白い。それなりのプロが本業について書いているはずなのに内容が薄っぺらく思考の浅さがわかったり、本人はうまく隠しているつもりなんだろうけど特定の職業や特定の階層などへの偏見が読み取れて残念だったりするものもあれば(別に偏見自体を否定するわけではないけど表現として隠そうとしていて隠せていないのが残念)、一行読んだだけで教養の深さと見識の高さを感じる文章も一方で存在するのがなんとも面白い。自分の見識や教養のなさもまたこの文章の中で露わなわけだが、最近だと橘玲氏の文章 を読んで勉強量と頭の良さ違うわと思い、内田樹氏の本を(たぶん)初めて買って読み、思想家を名乗れる人の文章とはかくなるものかと唸った。

ウェブ上の文章をさまよっていると、たくさんフォロワーがついているような「ライター」といわれる職業の人の書いた文章にも出くわす。確かに読み物として面白いし自分にはとても書けないし、何よりフォロワーの数がコンテンツとしての魅力を客観的に証明しているのだが、自分の中での一番価値の高い文章は言ってみるなら東大教授が書いた法学の基本書みたいな、長年の学究の積み重ねとロジックをとことん突き詰めた思考の具体化であるみたいな認識があり、若いライターが書いた面白さ重視の文章を手放しで評価という風にはどうしてもなれない。天性の文章センスだとか磨いてきた物書きスキルとかは尊敬するし、読んでて楽で楽しくはあるのでもちろん読むことはあるのだが、学位取得や研究活動の中で培われてきた知識、思考の積み重ねは本当に貴重なものなんだと改めて思う。

学位が常に偉いのかというとそうでもないとは思っていて、旧帝大のマスター持ってて容姿も整っているいい年した昔の知り合いが、SNSで周りがどう反応していいのかわからないポエムをたまに独白しているのを見ると、なぜ人はわざわざ自己満足でしかないような痛いポエムをわざわざネット上で世界に向けて発信してしまうのか、そして学歴が高い人のほうがそれをやってしまう傾向にあるのはなぜなのか、疑問が深まることはある。

king.mineo.jp

 

学位が何かの実力の証明であったり一部の仕事の登竜門になっていることは事実であるけれども、学歴が高い人=仕事ができる人、という風には常にならないのも世の常だ。

この話に似ていると個人的に思うのが、子育て経験があるかないかは人の経験上すごく差を分ける違いではあるけど、こと仕事のスキルに関しては大きく影響を与えないのではないかというところ。例えば子育て中で時短勤務で働いていて、限られた時間の中で効率よく仕事を片付けなければならない環境の中事務処理能力が向上する、あるいは子育て経験特有の困難を乗り越え忍耐力がアップし寛容できる範囲が広がる、そういうところで仕事に子育て経験が活きてくることは確かにあると思う。ただ、例えばガチの体育会出身の人が全員持っているようなどんな理不尽もやり過ごせるようなタフなメンタルと体力を、子育てを経験した人全員が持っているかというとそうではないし、子育ての中日々判断が求められその中で磨かれる能力は、仕事の、時に修羅場な状況の中求められる判断の質には直接には繋がっていないように思う。

あったほうがいいけど別になくても大丈夫、という経験は結構あって、でも何が自分のアウトプットに繋がっているインプットを正確に理解するのは本当に難しくて。 

差し色

 

大学生のうちにバイトをする時間は有益か否かという議論を少しツイッターで見た。

バイトをする時間があるくらいなら勉強とかした方がいいというロジック、優先順位に自分も同意するところで、一般的に考えて就活とかで差別化するにもバイトの話は弱いし(営業販売やらで社員まじえ張り合った中で上位とかそういうレベルは例外)、自分の子供だったら、海外で経験積める話(留学、旅行、ボランティア問わず)→お金出してもいい、長く打ち込める趣味の発見(継続)のため→お金出してもいい、という感じ。自分でお金稼ぐならありきたりなアルバイトでなく、採用などにもつながる実践的な長期インターンを選んで参加するのを勧めると思う。

就活の話だと、休日課長の趣味欄「カレー作り」の話が好きだ。記事を読めばわかるが、とてもクレバーな人なんだと思う。

ten-navi.com

 

 

 

いうまでもなく、バイトをする代わりにお金を出してやるとか、違う階層を見るためにバイトをするとか、こういった議論、視点は金銭的にとても恵まれた層のみができる話だ。

それでも話を進めると、家庭環境や生まれ育った地域、また通ってきた学校によってはアルバイトはした方がいいと思っていて、均一性の高い集団にいることに慣れてしまって自分とは違う層への免疫がない人生は、それが生涯貫き通せない限り(車は外車やレクサスしか乗ったことなくてマクドは行ったことありませんとかそういう階層)、あまり望ましいものではないんじゃないかと思っている。

自分も学生時代にいくつかバイトをした。塾講のバイトも学外の繋がりが生まれて色々面白い人がいて楽しかったし今に至るまで関係が続いている人もいてその繋がりは財産だし、比較的長く続けたので運営面にも少し関わる機会がもらえて勉強になった。

ただそれよりも、とある業界で社員さんに仕えながらバイトをしていたとき、仕事ができなくて上司に毎日詰められてて、生活でもお金が足りなくて所有していた車も手放さなければいけないような妻子持ちの若い社員が、部署内の若いシングルマザーにわかりやすく手を出していてそれを周りもみんなわかっているような環境で、顔は笑っていてもどこか目は笑っていないような、たぶん条件が許せば間違いなく自分は裏切られるんだろうなという、経済的にも社会的立場的にもあまり余裕がなく教養もモラルもない人に仕えた経験、接した経験が、今振り返ると本当に糧になっている。社会で使えるスキルやその後も続く人脈の獲得は全然できなかったけど、図書館の奥に引きこもって論文を探し、読み込み、ゼミ論文を書いていた経験の尊さとはすごく違うベクトルで、今なお自分の中に生きる糧だ。

 

chikirin.hatenablog.com

 

前も多様性というキーワードで連想したが、多様性、画一性に対する感性でやはり好きなのはちきりん氏の文章。

人間関係が固定してきたな、新しい風(価値観とか考え方とか)が最近めっきり入ってこなくなったな。こう感じたら一度今の場所を離れ、自分に必要と思う色を自分の中に差しに行きたい。