アナザーストーリー

先日とある老舗でうなぎのコース料理を会食の機会に食べた。
飲み放題付きで、感覚的に料理だけで一万はするだろうなという食事メニュー。ドリンクメニューで稼ぐのが飲食の鉄板だとは思うが、すぐに飲み干せてしまう小さいコップにビール瓶、会食なのでがばがばグラスを重ねる人はほぼおらず、頼んでみたハイボールは薄めの角ハイ、どう考えても飲み物代だけでお店はぼろ儲け(ウイスキーも、ストレートでどんなの出てくるか頼んでおけばよかったと少し後悔)。有名な老舗で内装はもちろん豪華で、スタッフはたくさん配置されている店でその辺の不便はなく、価格設定は決して暴利ではないのだろうが、コロナ渦の飲食店貢献のためのような会食だったなと。
コロナ渦により、テーブル間の移動やお酌も憚れる中、それはそれで余計な気遣いを人にする必要もなくよかったといえばよかったが、会食は参加者のコミュニケーション、その結果としての関係性構築に本質的に意味があるのであって、プールしてた交際費を使いたかったのはわかるけど達成したい目的とそれに応じてかける予算の関係がちぐはぐな我が社のいつもの感じが振り返るとそのまんま現れていたなと。うなぎのコース料理あるあるで、うな重が出てくるときにはお腹が一杯で十分楽しめないという、というかそんなに旨くもなかったような。

このツイートを思い出し、後日吉野家で豪勢にうなぎの二枚盛を頼んでみたがまた食べてみたいとはあんまり..
以前静岡の古びた店、おじいちゃんおばあちゃんが二人でやってるような小さい店で食べた白焼き(確か3,000円くらい)は絶品だったな。うなぎの良し悪しは難しい。

 

ちょっとしたアレンジの中にその人の本質的な一面が現れることがあるのは面白い。会話の中に、ぽろっとこぼれ落ちる発言の中にその人の性格的な部分が感じ取れる瞬間も。友達として付き合うのは楽しい人だけど仕事で負荷を与えるとダメになってしまう同僚に、共通の知人が「学生の気分のまま仕事をし続けていた人」とぽろっと率直に評価していたのを私は嫌いではなくて、ときおりこぼれる毒の入った直球の発言にドキッとしつつも、本音はひた隠し誰も彼もデキルやつだとほめている八方美人な人よりよっぽど信頼できる人だと思っている。

 

朝、小学生の登校時間に横断歩道で旗を持っている保護者たちが自分はあまり好きでなくて、何のためにそこにいるのかを考えないままなんとなく言われたまま役割をこなしている人たちばかりだと思っている。ミッションが「交通事故を起こさない」ではなくて「子供がいるときに旗を掲げる」ことだと勘違いしている人がほとんどだと感じていて、小学生が渡り終えた後旗をおろしてしまい、それで加速した車にその後渡ろうとしていた自分がひかれかけたことがあり、ただ役割をこなしていることがプラスもないがマイナスもない無害な存在だったらまだしもマイナスの有害にもなり得る存在は本当に何のためにいるんだろうと。 別の日、赤信号ぎりぎりで子供を横断歩道向こう側まで送り届けた人がその後自分は元いた側まで戻らなければいけなかったことに気づき、歩行者用の信号がもろ赤信号の中トラックが右折しかけているのを構わず横断歩道を駆け戻っていたのを見た。交通上も、子供のモデルとしても、100%害でしかない。

所得の比較的高い層が住んでいる地域で、高等教育を受けた人も多いはずなのにああなってしまうのは何か日本的な教育が最終的に生み出すアウトプットを感じざるをえなくて、与えられた課題に対して深く考えることなく安直に答えを出し対応をすることで許され、周りも事なかれで物事が進んでいることの積み重ねで日本の社会はできているんだなと、うなぎの会食のことも結びつけつつ残念な気持ちになる。
旗振りをお願いしただけで満足してオペレーションの質を全然担保できていない学校側に一番の責はもちろんあるのだけど、たぶんこれは事故が起きた後じゃないと変わらない典型的なケースだろう。問題が起こる前に対策をするのでなく、問題が起きてから対策が始まるのがいかにもで、情けなくなる。

 

個別の行動が積み重なって大きな問題として顕在化するまでは個の責任は問われない、そういう「不作為をマイナス評価とみなさない」社会の環境に甘え、自分で考えることをやめてしまうのは、いわゆる偏差値の高い人ほどその傾向があると思っている。環境に対して最適解を出せる人は多いのに、そこから掘り下げて課題を自分で設定できる人が少ない。

大学時代の同級生でこれ系の人がいて、卒業後高給で有名な企業の営業職に就き、社内でも将来を嘱望されるくらい適性も評価も伴っていたみたいなのに、結局転職してパブリック系の仕事に就いた。ワークライフバランスの意識を基にした選択なのか、もちろん本人の頭の中にしか答えはないのだけど、圧倒的な成功も望めた才能が空気を読んでほどほどに仕事をすることが環境に対する最適化になりがちなパブリック系の仕事に収まってしまったことは、同窓で学び才能に嫉妬した人でもあるだけに正直残念に思っている。

率直に言ってあまり性格はいい方ではなかったがだからこそ営業向きで、いい意味で周りに流されず合理的に考え行動を選択できる適性を活かすべきところで活かしていたら今はどんな風になっていただろうと思うときがある。時折流れてくる今の仕事っぷりの噂は、自分が想定したとおり環境に対する最適解としての仕事の向き合い方になっているようで、本質的な成果に才能と努力を全部突っ込んだ場合のアナザーストーリーを夢想するたび、なおさら残念だと感じる。

才能があって、1つ上の世界に行くためのノウハウを吸収する柔軟性があってストーリーを紡ぎあげていくというのはたぶん時に本人の力だけでは難しくて、本人の選択がより望ましいようになるよう、第三者的な立場で導いてあげられる誰かの存在が大切なんだろうなと思う。

 

柔軟な姿勢や考え方を形成していくため自分以外の思考やストーリーを意図的にでも自分の中に流し込んでいくのはとても大事で。昔すごく面白いと思ったことだけ覚えていてあらすじも何もほとんど忘れてしまっていた映画バニラスカイのことをファイアパンチを読んでいて思い出した。


バニラスカイ 予告 ダイジェスト Vanilla Sky Trailer