人望のある人

昔は「人望がある人」が実在するものだと思っていて、自分自身もそうなることを目指していた、いや少なくともそうなることを望んでいたように思う。誰にも好かれ、慕われ、自然と周りに人が集まる人。

ただ今はそれは幻想だと思っていて、野村克也氏の言葉「35歳を超えて敵がいないということは、人間的に見込みがないということである」に表現される、何かを成し遂げようとすれば、敵は当然できるというような思想がその拠り所だ。

誰からも好かれ誰にも嫌われないとしたら誰に対しても自分を合わせなくてはいけなくて、そこに自分というものがなくなってしまうように思う。自分というものを常に演じ続けなければいけないのは本人にとっても苦しいだろうし、どこかで周りもその演技に気づいてしまうような気もする。自分の場合、困っている人を助けたいという目的があって他人に積極的に近づくことと、仕事上の社交など何か具体的な目的があって相手に合わせるのは苦ではないのだが、人付き合いのためだけに自分を演じるのが苦手で、実際友達も多い方ではないと思う。

 

それなりに深く付き合ったことのあるいわゆる友達の多い人がいて(仮にAとする)、自分は最初Aのことを人望のある人だなと思っていた。周りに人が絶えなくて、いつも笑顔で明るい性格。

それなりの期間Aと付き合った結果、周りに人が多いのは最初から最後まで変わらなかったけど、途中から自分のAへの印象はがらりと変わって「人を選んで態度を変える人」という印象になった。

明るく、外見もよく見栄えもして、誰とでも初対面で打ち解けることができる。SNSの友達の数なんかもすごくて、一度投稿したら多くの友達から反応がある。でも自分はAが人によって約束をすっぽかしたりあからさまに応対を変えるのをとても近くで見ていて、その姿はとても自分勝手なんだけど、自分が邪険に扱った人から多少嫌われてたとしても自分が近くにいてほしい人はちゃんと近くにいるようになっていて、結果自分が望む人間関係を手に入れていた。

たぶんAの人を選ぶ基準は、単純な好き嫌いも当然あるのだろうけど、たぶん自分のために役立つ、とまではいわないものの広い意味で「自分の人生のプラスになるかならないか」で選んでいた気がして、万人に当り障りのない付き合いもできる社交性を持ちつつ、自分の恵まれた家庭環境を臆さずひけらかし、必要であれば平気で嘘もつける、地頭の良さに裏付けられた合理的な生き方は自分にないものとしてうらやましくもあった。

 

「敵がいないとダメ」というのは、自分の意見もやりたいことも成し遂げたいこともない人には敵なんてできようもないという意味だと思っていて、世の中には人の数だけ方向性が実はあって、そこで突き抜けようと努力している人なら当然周りとの摩擦は多かれ少なかれ存在するんだと。

Aは信念をもって何かを成し遂げるため突き抜けようとしている人ではなかったけれど、自分の好きなように人付き合いをしていて、周りを気にせず自分の人生やそれを形成する自分を取り巻くきらきらした人だけを全力で追い求めているという意味で自分は羨ましかったんだと思う。

自分がAの生き方に共感するかというとそうではなかったから今は一緒にいないわけで、Aが自分で選んだ限られた世界で人望を実現していること自体へはあまり羨ましさも感じなかった。(少なくとも自分には表面的な人望に見えた。)

別の例として、昔仕えたことのある、日本でもトップレベルの頭脳を持つであろう上司が周りとの摩擦を気にせず難易度の高い事業をばんばん実現させているのに部下からの信頼がほぼないまま一人で前に進んでいるのを見ていたとき、個人としての能力の高さと組織を従え組織として成果を出していく能力の低さがアンバランスに並存していて、頭脳明晰な部分への畏敬はあれど職業人としての魅力はもちろん生き方として羨ましさを感じることができなかった。

自分は、自分のパッションが周りに伝わり周り(全員ではないにせよ)が自然と応援してくれるような道をいいなと思う。Aのように最初から世界を切り取りそこにだけ好かれようとする生き方でも、昔の上司のように周りは理解できないし理解してくれないでもいいというのでもなく、自分で勝手に切り取らない世界そのままを理解しよう、そこに理解してもらおうとまずしたうえでなお摩擦を恐れず自分の道を突き進むのが、たぶん本質的に人望のある人とない人の違いなのではないかと思うからだ。