人はなぜポエムを

プライベートの知人で、かなり大きめの会社で定年まで勤め上げ幹部と言われるくらいの職位までいった人たちが、コロナ渦の中こぞって同じような行動をとっていた気がする。コロナ初期の頃ころっとデマに騙されチェーンメールを(おそらく多方面に)あなたのためだからと熱心に送っていたり、俺はまだ現役だとばかりにその分野の識者を装いSNS上で政権批判や自治体批判などおっぱじめたり。社会人という立場を離れた個人が社会との接点をどう求め、どう振る舞うのか。尊敬するところも多かった人が老害になりかけているところを見せられ、いずれ自分もそうなるんだろうかという漠然とした不安、いやそうならないために意識的に少しずつ日々の行動や学習に工夫をこらす仕組みが必要だという危機感を感じたりする。

仕組み化した日々の積み重ねは自分の書く文章にも多かれ少なかれ出る気はしていて。コロナ渦で本を読む時間に恵まれているので、書いた文でその人の中身が透けて見えるような経験が何度もできて面白い。それなりのプロが本業について書いているはずなのに内容が薄っぺらく思考の浅さがわかったり、本人はうまく隠しているつもりなんだろうけど特定の職業や特定の階層などへの偏見が読み取れて残念だったりするものもあれば(別に偏見自体を否定するわけではないけど表現として隠そうとしていて隠せていないのが残念)、一行読んだだけで教養の深さと見識の高さを感じる文章も一方で存在するのがなんとも面白い。自分の見識や教養のなさもまたこの文章の中で露わなわけだが、最近だと橘玲氏の文章 を読んで勉強量と頭の良さ違うわと思い、内田樹氏の本を(たぶん)初めて買って読み、思想家を名乗れる人の文章とはかくなるものかと唸った。

ウェブ上の文章をさまよっていると、たくさんフォロワーがついているような「ライター」といわれる職業の人の書いた文章にも出くわす。確かに読み物として面白いし自分にはとても書けないし、何よりフォロワーの数がコンテンツとしての魅力を客観的に証明しているのだが、自分の中での一番価値の高い文章は言ってみるなら東大教授が書いた法学の基本書みたいな、長年の学究の積み重ねとロジックをとことん突き詰めた思考の具体化であるみたいな認識があり、若いライターが書いた面白さ重視の文章を手放しで評価という風にはどうしてもなれない。天性の文章センスだとか磨いてきた物書きスキルとかは尊敬するし、読んでて楽で楽しくはあるのでもちろん読むことはあるのだが、学位取得や研究活動の中で培われてきた知識、思考の積み重ねは本当に貴重なものなんだと改めて思う。

学位が常に偉いのかというとそうでもないとは思っていて、旧帝大のマスター持ってて容姿も整っているいい年した昔の知り合いが、SNSで周りがどう反応していいのかわからないポエムをたまに独白しているのを見ると、なぜ人はわざわざ自己満足でしかないような痛いポエムをわざわざネット上で世界に向けて発信してしまうのか、そして学歴が高い人のほうがそれをやってしまう傾向にあるのはなぜなのか、疑問が深まることはある。

king.mineo.jp

 

学位が何かの実力の証明であったり一部の仕事の登竜門になっていることは事実であるけれども、学歴が高い人=仕事ができる人、という風には常にならないのも世の常だ。

この話に似ていると個人的に思うのが、子育て経験があるかないかは人の経験上すごく差を分ける違いではあるけど、こと仕事のスキルに関しては大きく影響を与えないのではないかというところ。例えば子育て中で時短勤務で働いていて、限られた時間の中で効率よく仕事を片付けなければならない環境の中事務処理能力が向上する、あるいは子育て経験特有の困難を乗り越え忍耐力がアップし寛容できる範囲が広がる、そういうところで仕事に子育て経験が活きてくることは確かにあると思う。ただ、例えばガチの体育会出身の人が全員持っているようなどんな理不尽もやり過ごせるようなタフなメンタルと体力を、子育てを経験した人全員が持っているかというとそうではないし、子育ての中日々判断が求められその中で磨かれる能力は、仕事の、時に修羅場な状況の中求められる判断の質には直接には繋がっていないように思う。

あったほうがいいけど別になくても大丈夫、という経験は結構あって、でも何が自分のアウトプットに繋がっているインプットを正確に理解するのは本当に難しくて。